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金澤義春物語第1部(私もホームレスだった)

21歳の発心


さて、実際に住む場所もなく食べ物もなく、仕事もなく、もちろん金もない、本物のホームレス、それが21歳の私だった。私は福島県須賀川国民学校高等科卒業し、小飛(矢吹飛行場)に入ったが出撃前に終戦。21年に福島県矢吹農事試験場に入学24年に卒業して農業に従事した



当時、私は迷っていた。このままでは農業の将来はない、伸ばすには機械力を取入れた工作農法でなければだめだ。それには資金が必要だ。しかしそんな莫大な資金はない。では牧畜業はどうか。それも右と同じやっぱり資金がものをいう。 私は迷いを吹っ切り思い切って上京した。昭和27年1月のことである


 上京したら何か仕事があるだろう。なんでもやってやるゾという意気込みであった。東京駅へ着いて見ると焼け野原である。駅から出る気にもなれず、エイッっとばかり再び電車に乗り、降りたところが川崎駅であった。これが運命というものだろうか、私が川崎と縁を結ぶ第一歩だった



 
もちろん川崎も焼け野原、今で言う東口へ出てあちこち歩き廻り、やがて西口へやって来た。そして、ふと眼についたのが、小さな看板であった。『金澤洋裁店』と書いてある。私は目を疑った。だがまぎれもなく“金澤”である。若しかしたら…一瞬、私の頭を兄の顔がよぎった。兄が東京へ出て行ったことは知っていた、ここが兄の店ではないか…。



店に入ったが、私はその場の冷たい空気を察していた。

「洋裁の仕事などお前に出来るわけはない」
兄はそう言った。それは当然だった。福島の田舎から突然やって来て、やれるわけはない。節くれ立った手、今まで見たこともないミシン、それに私はあのガアガアいう音が我慢ならなかった。
「また来るよ……」
一言、そう言い残して私は外へ出た。



あの冷たい空気、そして私を警戒するような兄嫁の眼、その眼は、金でも借りに来たのではないか、かまっていないで早く追い出せ……という合図を兄に送っている目であった。
実のところ、旅費はなんとかしたが、そのときの私のフトコロには、たったの8円しかなかった。なんでもいい、早く仕事にありつかなければと、自分に鞭打った。


ベンチに寝て浪花節



それにしても、今夜はどこで寝たらいいのか。川崎はもう暮れかかり、1月の寒さが身にしみた。そんな私の眼にふれたのは、駅前のベンチだった。私は思わず
「これだ!」 と叫んだ。新聞紙を顔にかぶせ、そのベンチに横になった。寒い、とにかく寒い。今さら兄のところに泊めてくれとも言えない。私は歯をくいしばってうなった。



ひと声、三声、思い切りうなった。
と、その時、私の頭にあるアイデアが浮かんだ。そのうなり声が導いてくれたのだと今でも思っている。
私は突然、浪曲を歌いだしたのである。郷里で、蓄音機でよく聞いた、
『佐渡情話』 である。



佐渡へ 佐渡へと 草木もなびく
佐渡は居よいか 住みよいか


繰り返し歌っていると、寒さを忘れる。まさに浪花節は私のあんかであった。こう書きながら、私は不思議な因縁を思う。今、私が 『寿演友会理事長』 をつとめ、金澤一春斉を名乗って高齢者慰問の舞台に立つ、そのものの出発点は、ここにあったのだと思う。


エピソード2に続く

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